2011 / 08 / 04

サッカー
ほしをつぐもの

一昨日(8/2)に練習中に倒れた
サッカー元日本代表の松田直樹選手(松本山雅FC)が、
急性心筋梗塞のため、本日亡くなりました。

正直、僕はそれほどのファンではなかったけど、
日本サッカーが世界への扉を開いたターニングポイントとなる試合には、
ほぼ必ず松田の名前があったように思うので、さすがにショックです。

昨年の暮れ、突然の戦力外通告で長年親しんだ横浜Fマリノスを
離れることになり、J1、J2からの誘いがあったといわれる中での
下部リーグJFL挑戦。

自ら決して恵まれているとはいえない環境に身を置き、
大好きなサッカーでまた新しい挑戦を始めようとした矢先のこと。
まだ34才という若さ(うちの奥さんと同い年)での悲報が
本当に本当に残念でなりません。

松田には何が見えていたんだろう。

僕とほぼ同じ世代、きっとやりたいこともたくさんあったはず。

僕もつい先日結婚して、ある日の朝「行ってくるよ」と出ていって
そのまま奥さんにも家族にも友達にも何も伝えられないまま
死ななければならないなんて‥‥。

年が近いからこそ、自分のことと重ねて想像するのも容易で。

ゾっとするほどの無念さを覚えてしまいます。

ただ‥‥、僕らの記憶から松田は永遠に失くなりません。
彼の遺志を、サッカーじゃなくともずっとずっと胸におきたい。

今からプロサッカー選手にはなれないけれど。
それでも、きちんとした志を持って潔く生きていきたい。
夢や希望を忘れずに生きていきたい。

‥‥したい、じゃなく。

「する」にするのが、松田かな。

ありがとう松田。おつかれさま松田。




以下は、今日のネットニュースから記事を転載させてもらいます。

もちろん無許可なので、もし誰かがこれを見かけて問題に思ったら
連絡をいただけたらと思います。すぐに対応しますので。

ただこの転載の意図は、決して営利や誰かを困らせたいわけではなく
これを読んで、松田直樹というサッカー選手をいつでも思い出して欲しいから。
彼の遺志をより多くの人に感じて欲しいから、です。


┃サッカーを愛したやんちゃ小僧…松田選手、早すぎるピッチとの別れ

  直樹コールが鳴りやまない。
  昨年12月4日、横浜Mでの最終戦では涙が止まらなかった。

  「俺、マジでサッカー好きなんですよ。もっとサッカーやりたいです」

  心からサッカーを愛した男は、感謝を込めてサポーターに現役続行を訴えた。

  2004年、酷暑の中国で開かれたアジア杯では影の殊勲者だった。
  控えに回りながら全力でシュート練習、ミニゲームに臨んだ。
  「すごい集中力だ」とジーコ監督は賞賛。
  奮闘は先発組の強い刺激になり、チームは2連覇へ駆け上がった。

  気温40度近い中での練習後、シャワーを浴びてバスへと向かう途中だった。
  妙齢の女性を見つけると「きれいだね」と記者や仲間に話しかけて笑った。
  ピッチでの鬼のような形相とは対照的に、飾らない人柄で周囲の心をわしづかみにした。

  男気も一流。
  2007年10月のナビスコ杯川崎戦では即席GKに。
  味方GKが退場処分を受けた際、交代枠を使い切っていたため
  ユニホームの色を変えてピッチに立ち続けた。
  誰もが戸惑う場面で、真っ先に手を挙げた背中で仲間を鼓舞していた。

  日本が初めて16強入りした2002年のW杯日韓大会では全4試合に、
  “マイアミの奇跡”と呼ばれる1996年アトランタ五輪のブラジル戦にもフル出場し、
  日本サッカー界が歴史の扉を開く瞬間には欠かせない役者だった。

  よく、負傷した仲間の名前をシャツに記してユニホームの下に着た。
  気が抜けた若手のプレーは怒鳴った。
  今季から所属するJFLの松本山雅でも、情に厚い熱血漢のままだった。
  長野で伝えたいことは山のようにあったはず。早すぎる。
  (2011年08月04日配信、産経新聞ウェブ版より)


僕はチームメイトになったことがない、ただのサッカー好きだけど。

同じサッカー好きとして、彼の遺志を継ぐ者になりたい。
そして、少しでも多くの人が彼の星を継いで欲しいと思います。


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